西寒多神社
創始は、応神天皇九年(西暦二七八年)四月 武内宿禰公勅命を奉じて西寒多山(現本宮山)上に
宮殿を建立し後に大友十代親世公が応永十五年(西暦一四〇八年)三月に社殿を現在地に遷し今日に至る。
『境内神苑』
26,506平方メートルの境内には、樹齢450年余りのふじ(市指定名木)、幹径1m、棚の広さ330平方メートル、花房1.5mにおよぶ稀有の名木と樹齢100年余りの数百株の平戸つつじ。春の新緑、秋の紅葉は荘厳な社殿とともに清遊をかねた霊地です。なお本宮山奥宮まで6kmの登拝路は、一日の家族ハイキングコースとして快適です。
【萬年橋】
県指定文化財
・指定 昭和55年4月8日
軽快で美しい弧線を描く、太鼓橋とも呼ばれる石造単アーチ橋です。全長23メートル、幅3.85メートル。11メートルの径間に対してアーチの長さが3.8メートルと低く、アーチと路面の間も狭いのが特徴です。江戸時代末1862年(文久2)、延岡藩寒田村の庄屋佐藤氏らが発起し、大野郡柴生田村(現在の豊後大野市千歳町)の石工後藤氏らによって同年完成しました。
【鬼の歯形岩】
その昔、霊山には恐しい鬼が住んでいました。鬼たちは麓に降りてきては村人に悪さばかりしていました。
ある時、天照大御神を祀る巫女の親子が本宮山にやって来て、毎日お祭りをしていました。霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音でした。
鬼は親子を取って食おうとしましたが、母親が霊山から本宮山まで、一晩で橋をかけられたら食べられましょうと無理難題の約束をさせました。
ところが鬼たちは、一晩で橋を完成させかけたため、あわてた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをしました。すると鬼たちは朝が来たと思い残念がって歯で石を噛み投げました。
そして鬼たちは霊山から居なくなってしまいました。この歯型石は、その時の石とされています。
宮殿を建立し後に大友十代親世公が応永十五年(西暦一四〇八年)三月に社殿を現在地に遷し今日に至る。
『境内神苑』
26,506平方メートルの境内には、樹齢450年余りのふじ(市指定名木)、幹径1m、棚の広さ330平方メートル、花房1.5mにおよぶ稀有の名木と樹齢100年余りの数百株の平戸つつじ。春の新緑、秋の紅葉は荘厳な社殿とともに清遊をかねた霊地です。なお本宮山奥宮まで6kmの登拝路は、一日の家族ハイキングコースとして快適です。
【萬年橋】
県指定文化財
・指定 昭和55年4月8日
軽快で美しい弧線を描く、太鼓橋とも呼ばれる石造単アーチ橋です。全長23メートル、幅3.85メートル。11メートルの径間に対してアーチの長さが3.8メートルと低く、アーチと路面の間も狭いのが特徴です。江戸時代末1862年(文久2)、延岡藩寒田村の庄屋佐藤氏らが発起し、大野郡柴生田村(現在の豊後大野市千歳町)の石工後藤氏らによって同年完成しました。
【鬼の歯形岩】
その昔、霊山には恐しい鬼が住んでいました。鬼たちは麓に降りてきては村人に悪さばかりしていました。
ある時、天照大御神を祀る巫女の親子が本宮山にやって来て、毎日お祭りをしていました。霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音でした。
鬼は親子を取って食おうとしましたが、母親が霊山から本宮山まで、一晩で橋をかけられたら食べられましょうと無理難題の約束をさせました。
ところが鬼たちは、一晩で橋を完成させかけたため、あわてた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをしました。すると鬼たちは朝が来たと思い残念がって歯で石を噛み投げました。
そして鬼たちは霊山から居なくなってしまいました。この歯型石は、その時の石とされています。
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施設情報
| スポット名(カナ) | ささむたじんじゃ |
|---|---|
| 電話番号 | 097-569-4182 |
| 住所 | 大分県大分市寒田1644番地 |
| アクセス | 大分駅前3、4、5番のりばから、寒田(そうだ)・ふじが丘行き、または、光吉・ふじが丘行きで約30分、「ふじが丘南」バス停下車、徒歩約15分 |
| 駐車場 | 有 |
| 備考 | ・お守り 有 |
| 公式サイトのURL | https://sasamuta.com/ |
| 提供元 | My神社 |
| 投稿者 | みんトク編集部 |





