寒河江八幡宮

0 0件 マイリストに追加
『寒河江まつりの由来 』
寒河江の祭の最大のものは、寒河江荘の総鎮守であった寒河江八幡宮の祭である。鎌倉時代の建久2年(1191年)に大江氏が鎌倉から神霊を勧請したというから、かれこれ800年以上の歳月が流れている。このころの祭の様子はわからないが、室町時代に寒河江城を大修築して城下町を整備したころ、この八幡宮に馬場が作られていた。おそらく大江氏は、寒河江城の西方に八幡宮を奉り、鎌倉八幡宮で行われていた8月15日の放生会の流鏑馬儀礼を取り入れたものであろう。この祭は、生きている鳥や魚を放って神仏を供養し、弓馬の競技によって神意を占うものであった。
江戸時代、寒河江は幕府の直轄地となり陣屋が置かれ、代官が派遣された。寒河江は、「寒河江千軒」の町として繁栄し、代官様のお膝元ということで、ゆったり空気が流れていた。紅花や青苧(あおそ)・漆を扱う大商人が軒を並べて、市の立つ日には大勢の人々が集まってきた。寒河江八幡宮の祭も、正徳年間(1711年~1716年)ころから神輿が町を巡るという形態をとるようになる。神が町へ下り、人々に神徳を授けるものであった。「放生会」も舟橋川(沼川)で行われていた。流鏑馬も作試しと称して稲作の吉凶を占うものに変化していた。
享保12年(1727年)八幡宮の神輿が新しくなった。この祭の時に、チャンチャンネンツンと称する若衆の手による「祇園囃子」も町を廻った。六供町・上町・西ノ町・新町・南町・七日町と7台も出て、寒河江の町衆の心意気を表した。六供町組のものは、元禄年間(1688年~1704年)に京都に行って習ってきたものだから、他の町に教えるなと戒めた。
文化・文政のころは、さらに寒河江の各町や富豪層は「山車」を出して祭礼を盛り上げた。六供町の又三郎は「風流三国志」、治郎兵衛は「日高川入相楼」、川嶋屋は「須磨浦塩汲」、高津屋は「龍宮」、六右衛門は「養老屋」、かどやは「足柄山」、新町も横町も石川も華麗な山車を出した。寒河江の祭は飾り屋台や山車が巡行して、それは見事なものであったろう。近代に入ると、神輿に武者行列と奴がつく。奴は「凱旋奴」と称し、六供町の猛者組が担当した。閏年の祭の日には、この奴と内楯獅子踊組が各所で衝突した。寒河江の祭は熱気を帯びていたのである。
戦後の仮装行列も寒河江祭の圧巻で、谷地のドンガ祭の観衆が寒河江に流れてきたほどであった。
寒河江の祭は、寒河江八幡宮の放生会・流鏑馬・神輿渡御を中心として、町衆の祇園囃子屋台や山車が盛り上げたのであった。

まだ写真が投稿されていません。

おすすめのクチコミ

クチコミを書く

まだクチコミがありません。最初のクチコミを投稿してみませんか。

施設情報

スポット名(カナ) さがえはちまんぐう
電話番号 0237-86ー6258
住所 山形県寒河江市八幡町5番70号
アクセス 左沢線 西寒河江駅 徒歩10分
定休日 年中無休
駐車場
備考 ・お守り 有
提供元 My神社
投稿者 みんトク編集部

周辺スポット