湯島天満宮
【天神信仰】
「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。
菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。
菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。
やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。
【道真公の御事歴】
道真公は天穂日命の末、野見宿禰を祖とし、御父は菅原是善公、御母伴氏は神代以来の名門大伴家の出であります。承和十二年(845)御誕生になり、五才の時、庭前の梅花を見て、和歌を詠じ、十一才にして「月夜見梅花」の詩を作られました。
三十三才で文章博士となり、四十二才の時讃岐守として四国に赴任、農耕・畜産に尽力されました。その政治力を認められて宇多天皇の信任を得、しだいに重用されて、位階も昇進の一途をたどり、寛平九年(897)に醍醐天皇が即位されましたが、道真公はいよいよ信任あつく、昌泰二年(899)、左大臣藤原時平と並んで右大臣兼右近衛大将に任ぜられ(御歳五十五歳)、ついで同四年正月には従二位に叙せられるに至りました。しかし、時平の中傷によって太宰権帥に左遷されました。
配所での道真公は、門を閉ざして出でず、ひたすら謹慎の意を表されておりましたが、延喜三年(903)二月二十五日、ついに薨去されました。御年五十九歳。配所でお詠みになった「去年今夜侍清涼」の詩は、とくに広く愛誦されています。
道真公は、以上記したように、たいへん詩文に長じたお方でありました。御著の詩文集に「菅家文草」「菅家後集」があるほか、「三代実録」「類聚国史」「新撰万葉集」などの編著にも当たられております。世に菅公・菅丞相とも呼ばれ、後世、学問の神さまといえば道真公をさすようになりました。
【天神さまと牛】
天神信仰の中でも、天神さまと牛とは切っても切れないものがあり、古くより様々な縁起・伝承を見ることが出来ます。
道真公は承和十二年六月二十五日乙丑の年に、ご生誕になり、延喜三年二月二十五日の丑の日に薨ぜられ、また「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定めた、と書かれています。
ほかにも、天神さまと牛との関わりについて数多く見られ、道真公がいかに深く牛を慈しんでいたかも窺われます。
このようなことから当神社の境内には石造りの臥牛があり、牛の角をなでていく方、手を合わせていく方、鼻が悪いといって鼻をなで、足が悪いのでと足をなでていく方、・・・・・と多くの方々から「撫でうし」として信仰されています。
「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。
菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。
菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。
やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。
【道真公の御事歴】
道真公は天穂日命の末、野見宿禰を祖とし、御父は菅原是善公、御母伴氏は神代以来の名門大伴家の出であります。承和十二年(845)御誕生になり、五才の時、庭前の梅花を見て、和歌を詠じ、十一才にして「月夜見梅花」の詩を作られました。
三十三才で文章博士となり、四十二才の時讃岐守として四国に赴任、農耕・畜産に尽力されました。その政治力を認められて宇多天皇の信任を得、しだいに重用されて、位階も昇進の一途をたどり、寛平九年(897)に醍醐天皇が即位されましたが、道真公はいよいよ信任あつく、昌泰二年(899)、左大臣藤原時平と並んで右大臣兼右近衛大将に任ぜられ(御歳五十五歳)、ついで同四年正月には従二位に叙せられるに至りました。しかし、時平の中傷によって太宰権帥に左遷されました。
配所での道真公は、門を閉ざして出でず、ひたすら謹慎の意を表されておりましたが、延喜三年(903)二月二十五日、ついに薨去されました。御年五十九歳。配所でお詠みになった「去年今夜侍清涼」の詩は、とくに広く愛誦されています。
道真公は、以上記したように、たいへん詩文に長じたお方でありました。御著の詩文集に「菅家文草」「菅家後集」があるほか、「三代実録」「類聚国史」「新撰万葉集」などの編著にも当たられております。世に菅公・菅丞相とも呼ばれ、後世、学問の神さまといえば道真公をさすようになりました。
【天神さまと牛】
天神信仰の中でも、天神さまと牛とは切っても切れないものがあり、古くより様々な縁起・伝承を見ることが出来ます。
道真公は承和十二年六月二十五日乙丑の年に、ご生誕になり、延喜三年二月二十五日の丑の日に薨ぜられ、また「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定めた、と書かれています。
ほかにも、天神さまと牛との関わりについて数多く見られ、道真公がいかに深く牛を慈しんでいたかも窺われます。
このようなことから当神社の境内には石造りの臥牛があり、牛の角をなでていく方、手を合わせていく方、鼻が悪いといって鼻をなで、足が悪いのでと足をなでていく方、・・・・・と多くの方々から「撫でうし」として信仰されています。
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合格祈願で行きました。
受験シーズンでもあったので賑わっていました。0 -
2月は梅祭りが行われています。
様々な催し物や屋台が並んでいて、梅を見ても屋台で食べても楽しむことが出来ます。4
施設情報
| スポット名(カナ) | ゆしまてんまんぐう |
|---|---|
| 電話番号 | 03-3836-0753 |
| 住所 | 東京都文京区湯島3-30-1 |
| アクセス | 東京メトロ 湯島駅 (千代田線)3番出口 徒歩2分/ 東京メトロ 上野広小路駅(銀座線)徒歩5分/JR 御 徒 町 駅(山手線・京浜東北線)徒歩8分 |
| 営業時間 | 06:00~20:00 |
| 駐車場 | 無 |
| 料金 | 祈祷料 個人の方・・・5千円・1万円・2万円 団体の方・・・1万円・2万円~ 商売繁盛・社運隆昌・工事安全・団体参拝等 1万円・2万円・3万円~ |
| 備考 | ・お守り 有 |
| 公式サイトのURL | https://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm |
| 提供元 | My神社 |
| 投稿者 | みんトク編集部 |








